呼吸器科で働いていた頃の、ある患者さんとのエピソードです。
春先の昼間、喘息発作で救急搬送されてきた、20代半ばの男性。
発作時、中にはパニックになる方も多いのですが、喘息発作でゼーゼーと苦しむ中、とても理性的な様子でした。
「喘息」と聞くと、そこまで生死に関わらないのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、肺炎も喘息も、実は「死」に至ることもある病気です。
重症度の高い大発作を目の当たりにすると、こちらも苦しくなってくるほど辛い症状です。
そして急激に変化する病気。時には挿管し、呼吸を確保しなければならない状況にもなる病気です。
そんな喘息発作を起こして緊急入院されたのですが、
幸い、治療効果が早めに得られました。
そして会話もできるまでに回復した頃、ぎりぎりまで自宅で我慢していたことが分かりました。数日前から咳や息苦しさを感じていたものの、我慢し続けていた。
横になることもできず、夜眠ることもできず、限界を感じて救急車を呼んだと話してくれました。
物腰が柔らかく、目を合わせるのも控えめで、話し方もどこか遠慮がちな方でした。
少しずつ治療効果はあるものの、まだ完全に横になることはできず、時折せき込みもみられていました。会話は最低限にしなければならなかったのもありますが、ご自身から何かを話す、質問するということは一切ありませんでした。
病院には、我慢の限界で緊急搬送されてきたこともあって、身ひとつ。着替えも何も持っていません。
個室に入られていましたが、テレビを観ることもなく、ベッドに腰掛けたまま、ただ窓の外をぼんやりと眺めていました。
何を思っていたのだろう。ふと、そんなことが頭をよぎったのを覚えています。
入院中、ご家族が面会に来ることはありませんでした。
どこか「ひとりで抱えてきた時間」の長さを感じさせる人でした。今振り返ると、もしかしたらヤングケアラーだったのかもしれません。
喘息による呼吸困難に加え、アトピーのため、顔や頭皮に至るまでの全身の皮膚が強く乾燥していました。
ひどい落屑も広がっていました。
本当に自宅で我慢していたのは、数日だけかな?と思う程、皮膚は荒れ、洋服も長く着古したものでした。
たしかに息苦しさがあると、シャワーや入浴は大きな負担になります。自宅でギリギリまで頑張ったことがよく分かりました。
アトピーの方は、掻いて皮膚を傷つけないために、爪を深爪になるほど短く切っている方が多いです。その方の爪も、とても短く、きれいにカットされていました。
かゆみもまた眠りを妨げますし、ものすごいストレスです。保清できていないと、皮膚状態も悪化。どんどん悪循環を引き起こしてしまいます。
呼吸状態から、入浴は難しく、清拭を行うことになりました。
自らは語らず、若い男性患者さんということもあり、病室に入るこちらも少し緊張していたのを覚えています。
無理に会話を広げることはせず、「苦しかったですね」「ここまで、よく耐えていましたね」そんな言葉を添えながら、静かに清拭を行いました。
清拭は、単に体を拭くケアではありません。
私も入院経験の中で、清拭をしてもらったことがあります。恥ずかしさももちろんありますが、何よりも安心感をもらえる大切な時間でもありました。
乾燥した皮膚に保湿剤をなじませることで、皮膚のバリア機能を補い、かゆみを和らぎます。その方の皮膚状態はしばらく放置されていたこともあり、一度の清拭では正直綺麗にはならない程でした。しっかり温かいタオルで蒸らし、どうしても時間がかかってしまいました。
清拭が終わったあと、その方の表情がふっと緩んだのが分かりました。言葉は多くありませんでしたが、その変化は、こちらにもはっきりと伝わってきました。

その方にとって、今回が初めての入院。そして、喘息についての知識がほとんどありませんでした。
どんな病気なのか、どうやって発作を予防するのか等、まったく知らなかったのです。
状態がさらに落ち着いて、酸素も点滴も外れた頃、喘息についての説明を行うことにしました。
喘息とはどういう病気なのか。
発作がでないように、日常生活の中で何に気をつけると良いのか。病棟にあるパンフレットと、自作の資料を使いながら、ゆっくり説明。
すると、「こんなふうに説明してもらったのは初めてです」「だから苦しくなるんですね」と、静かに言ってくれました。
喘息は、発作が起きてから対処する病気ではないので、普段の自己管理が再発予防に大きく関わります。けれど、そのことを十分に説明されないまま、治療を続けている人も少なくありません。
しばらくして、その方は無事退院されましたが、最後まで多くを語らない方でした。
そして後日、私の名前が入ったクッキーが病棟に届いたのです。

そのクッキーの存在は、病棟でも少し話題になり、正直なところそれを聞いた時は、ほんのり怖さもありました。けれど、先輩が先にパッケージを調べて「ちゃんとしたお菓子会社のだよ」と(笑)。
とっても美味しくて、心がじんわり温かくなるクッキーでした。
今思えば、あれは看護師として「役に立てた」と、素直に感じられた出来事です。
特別な処置をしたわけでも、劇的な変化があったわけでもありません。清拭をして、保湿をして、必要な説明をして、特別な会話をしたわけでもありません。
けれど、その方の頑張りを理解しようと、1つ1つのことを私なりに丁寧に関わったことは確かです。
喘息発作を繰り返すことも多い中、
その後、その方が喘息発作で再入院してくることはありませんでした。
それが、何よりも嬉しかったです。
自分たちの関わりやケアが、その方の生活に続いていくことがあると思えた経験です。
春先の個室で、外を眺めていた若い男性。
あの静かな時間と関わりは、今でも私の中に、看護の原点として残っています。


