はじめに
最近、ブログを書いていて、
以前ほど何度も修正しなくなりました。
完璧を目指さなくなった、というより、
「これでいい」と思える瞬間が増えたのかもしれません。
そして、
ほんの少しだけ「飽きたかも」と感じる自分もいます。
でも、この変化は、
悪いものではないように思うのです。
「飽きた」「慣れた」は、悪いこと?
私たちはよく、
- 飽きる = やる気がなくなった
- 慣れる = 手を抜いている
そんなふうに捉えがちです。
でも、よく考えてみると、
日常の中で「飽きないこと」「慣れないこと」って、
むしろ少ないのではないでしょうか。
歯を磨くこと
顔を洗うこと
水を飲むこと
どれも、特別な気持ちはないけれど、
淡々と、自然に、続いている。
そこには、
「できている」という静かな安定があります。
緊張が抜けると、特別感が消えていく
何かを始めたばかりの頃は、
- ちゃんとできているか
- 失敗していないか
- 間違っていないか
常に緊張が伴っています。
けれど、続けるうちに、
- 考えなくても手が動く
- 構えなくてもできる
そんな状態に変わっていく。
これは、
気持ちが緩んだというよりも、神経が慣れたということ。
脳の働きで見ると、
強い緊張や不安の中にいる時、
常に「考え続ける脳(DMN)」が過剰に働いています。
けれど、回復とともに神経系が落ち着いてくれば、
その活動は少しずつ静まり、
行動は「考える」から「自然にできる」へと移っていきます。
心理学的に見ると、
これは自己効力感が回復してきた状態とも言えます。
「意識しなくてもできる」
「無理なく続けられる」
回復や適応が進むと、
行動は「イベント」から「日常」に変わってくれます。
表裏一体に見える心の変化――語源から知れること
「飽きた」と感じる時、
そこには、
- 安心
- 安定
- 定着
が同時に存在していることも多い。
悪く見えがちな感情の裏側には、
回復や成熟が隠れているように思います。
なので、
『最近、ちょっと飽きてきた』
『なんだか慣れてきた』
そう感じる時ほど、
「うまくいっている証拠かもしれない」と
捉え直してみてもいいと思うのです。
言葉の意味を少し辿ってみると、
「飽きる」は、もともと「満ち足りる」という感覚を含んでいます。
もう十分に満たされたから、
これ以上、無理に求めなくていいから転じたものなのです。
また、「慣れる」は、
心や体が環境に順応し、
経験を重ねて馴染むことを言います。
「習慣」は、繰り返すうちに、
努力が自然な動きへと変わっていくこと。
”習慣は第二の天性なり”という言葉もありますね。
こうして見ると、
飽きること、慣れること、習慣になることは、
どれも回復や適応の途中にある感覚なのだと感じられます。
今の熱量でしか書けないもの
元気すぎても、
変なことを書いてしまいそうだし、
つらすぎても、
書く余裕なんてありません。
その中間にある、
少し落ち着いた場所でこそ、
静かに言葉が生まれることがあると思います。
その時にしか書けないものがあって、
今の感情や思いを書いておくって、意外と大事かもしれない。
あとから振り返ると、
- あの時、何を考えていたのか
- 何に迷って
- 何に救われていたのか
あんなに喜怒哀楽あったはずなのに、
細かいところは、
驚くほど、思い出せません。
でも、
書いてある言葉は、ちゃんと残って
タイムカプセルのように見返すと思い出す。
だから、未来の自分にとって、
それはきっと
励ましや道しるべにもなり得るのだと思います。
それが、経験という自分の資産になる。
思ったことを行動化するって、
すごく大変なイメージがありますが、
こう思うと、
思った以上に小さなことの積み重ねこそ、
大きな資産になり得ると思えます。
おわりに
「飽きた」と感じる日が来るほど、
ここまで続けてこられた。
そう考えると、その言葉は、
どこか誇らしくも感じられます。
慣れて、習慣になって、
いつの間にかできるようになったこと。
その積み重ねが、
気づけば、判断力やパワーを
少しずつ取り戻させてくれます。
飽きた、慣れた、習慣になった――
それはきっと、回復が、
静かに進んでいる証なのだと思います。



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