“気にしない”の裏側で——看護師が抱えるセクハラと“我慢の文化”
「私はそんなの気にしないですから。
適当にあしらえますし。」
そう言って笑った後輩の声が、今も耳に残っています。
訪問先の利用者さんの下品な冗談や行動。
場の空気を壊したり、怒らせたりさせないために、笑顔で受け流す。
それを“対応力”と呼ぶ人もいます。
けれど、その笑顔の奥に小さな傷ができていることに、気づかない人も多いと思います。
私も、昔はそうでした。
「気にしない」「看護師だから仕方ない」
「いちいち対応していられない」
そう思い込むことで、やり過ごしてきました。
大きな事にしたくない、あしらえているから大丈夫と。
でも、ある日ふと、自分の中の何かが違うように思いました。
看護の現場だけではなく、高校生の時に毎日のように遭った痴漢も。今になっても、思い出し、嫌な気持ちになります。声に出せなかったことも嫌な気持ちになる要因です。
看護の現場では“やさしさ”や“プロ意識”の名のもとに、傷つくことを許してしまう文化が、この仕事にはまだ根強く残っているように思います。
※次の段落には一部、過去の経験に基づく具体的な表現が含まれます。
“それも仕事だから”と言われ続けた痛み──看護師が抱える見えない暴力
「看護師だから、仕方ない」
そう言葉にして、どれだけのことを我慢してきたのでしょう。
患者さん・利用者さんの体だけでなく、心や生活、時には家族の関係にも深く関わる。
だからこそ、言葉の暴力やセクハラのような“見えない傷”を受けても、
「プロとして受け流さなければ」と自分を納得させてしまうことがあるかもしれません。
患者さん・利用者さんのことを「患者さま・利用者さま」と過剰に対応していた時代もありました。”お客様は神様”は、医療業界にも浸透していました。そのことも、看護師に“何をしてもいい”“怒られない”と勘違いしてしまう人が生まれやすかったのかもしれません。
看護師は、どうしても処置やケアの際に体が密着することが多い仕事です。
血圧を測っている最中に胸を触られる。
体位交換や移乗の際にお尻を触られる。
陰部を素手で触らせようとする、夜間の巡回時に襲われそうになる。
…そんなことが、数えきれないほどありました。
そして、言葉の暴力もたくさんありました。
直接的で性的な暴力もあれば、看護師を召使いのように扱う人や理不尽なクレーマーも。
もちろんセクハラだけでなく、殴られたり噛みつかれることもあります。
今では、患者さんからのセクハラや暴力に対して「声をあげる」ことが、少しずつできるようになってきたように感じますが、
私が20〜30代の頃、特に病院勤務の時代は、それが日常茶飯事でした。
それが、あまりにも日常的すぎて、
気にしないようにしていないと、やっていけないというのも事実でした。
けれど、本来“気にしない”ことが強さではないと思っています。
自分を守ることも、看護の一部だし、自分にも尊厳はある。
後輩の発言を聞いて、
これまで看護師として働く中で感じた“我慢の文化”と、その背景にある報酬や地位の問題について、改めて考える機会にもなりました。
相手との境界線——働く看護師としての尊厳をもつ
看護師という仕事は、人の心や体に深く触れる。
だからこそ、「相手を思いやる・尊重する」「寄り添う」ことが大切です。
けれど時にそれは、境界線を曖昧にしてしまうことも。
どこまでが“やさしさ”で、どこからが“我慢”なのか。
患者さん・利用者さん・ご家族からのセクハラ、暴言、暴力——。
特に病院では、急変に伴う意識障害や疾患によって、本人の意思に反して暴力が発生してしまう場でもあります。
そうすると現場では、
「相手は病気だから仕方ない」
「我慢するしかない」
そんな空気が漂っている場合もあるかもしれません。
本当は、誰も我慢する必要なんてないですし、ちゃんと声にあげて良いと思っています。
守るのは命だけじゃない──看護師の尊厳を守るということ
私は、こういったことからも考えることがあります。
看護師の報酬や地位の低さは、こうした“我慢の文化”とも深く関係しているのではと。
ケアのひとつひとつに値段をつけてみると、驚くほど安い。
吸引、経管栄養、創部処置、記録……。
どれも高い専門性が求められるのに、単価にすれば数百円、時にはそれ以下。
しかもその裏には、目に見えない時間と労力がある。
関連記事はこちら→『看護師の仕事を「お金」や「時間」で見つめなおす』
利用者や家族との会話、看護記録、
夜間の緊急対応、そして自分の感情を整理するための“無音の時間”
それらは「仕事」ではなく「思いやり」として処理され、いつの間にか無償の労働のように扱われているように感じます。
私は今でも、あのときの後輩の表情や話し方を思い出すと、
あれは、我慢ではなく、現場を守るための“瞬間の判断”でもあったと思います。
でも、もし彼女が心のどこかで傷ついていたなら、私はそのことを、見過ごしたくないとも思います。
「気にしていい」
「守っていい」
「言葉にしていい」
そう伝え合える職場や社会であって欲しいと思います。
看護師という仕事が、“我慢の象徴”ではなく、人を支えながら、自分も大切にできる仕事として認められるように。
こういう様々な暴力に関しては、
仕事なんだから、「我慢しないといけない」「嫌なんて言ってはいけない」
なんて思わなくて良いんです。
自分を守るためにできること——それぞれの解決方法
私は、できる限り記録を残すようにしていました。
カンファレンスで取り上げられることは難しかったり、そこまで大きなことにしたくなかったりする時にも。
しかし、記録に残すことは、嫌な気持ちになったり、思った以上に労力を使います。文章にすることに、ためらいもあるかもしれません。活字になると、印象が強くなりすぎるので、書きづらいなど。
でも、そんな書きづらさや、なんて書けば良いか迷ったときは、シンプルに事実と言われたS情報(患者さんの言葉)をそのまま書いていきます。
その結果、記録をすることで、自分の中で線を引くことができます。相手を責めるためではなく、自分を守るためになります。
カルテを読んで、共感してくれる人が出てきたり、対応方法を変えていこうと動いてくれる人が出てきたりもします。
一方で、
記録もせず、声もあげず、
「ああいう人だから」「適当に流しておけばいいよ」と言う人もいます。
それがその人のやり方であり、
本人が納得しているなら、それも一つの選択だと思っています。
けれど、愚痴や不満だけが共有されると、聞く側も心がすり減ってしまうことがあり「それならどうしたいの?」と、つい思ってしまうこともありますよね。
どこまでを「許容できる」と感じるかは、人それぞれです。
だからこそ、「声をあげる」「書いて残す」「距離をとる」「流す」
——どの選択も否定されない場であってほしいと思います。
大切なのは、お互いの線引きを尊重し合えること。
自分の心を守るための方法は、人の数だけあるので、自分がしっくりくる方法を、それぞれが否定せずにいられる環境になっていけたら良いですよね。
さいごに
私たちが抱える小さな“我慢”は、
もしかしたら、誰かが声を上げることで少しずつ変わっていくのかもしれません。
それは、セクハラのような言葉だけでなく、暴言、暴力、理不尽な要求、無理解、終わりのない記録……
そんな日々の“我慢”の積み重ねかもしれない。
「気にしない」で終わらせず、もし結果が出なくても、「どうしたらいいだろう」と一緒に考えていける場が増えたら嬉しいです。
看護師という仕事が、“尽くす”だけでなく、“自分を大切にする力”も含めて評価されるようになりますように。
今日も誰かのケアをしながら、
私たち自身も癒されていけますように。



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