“気にしない”の裏側で

看護
この記事は約7分で読めます。

“気にしない”の裏側で——看護師が抱えるセクハラと“我慢の文化”

「私はそんなの気にしないですから。
適当にあしらえますし。」
そう言って笑った後輩の声が、今も耳に残っています。

訪問先の利用者さんの下品な冗談や行動。
場の空気を壊したり、怒らせたりさせないために、笑顔で受け流す。

それを“対応力”と呼ぶ人もいます。

けれど、その笑顔の奥に小さな傷ができていることに、気づかない人も多いと思います。

私も、昔はそうでした。
「気にしない」「看護師だから仕方ない」
「いちいち対応していられない」
そう思い込むことで、やり過ごしてきました。
大きな事にしたくない、あしらえているから大丈夫と。

でも、ある日ふと、自分の中の何かが違うように感じました。

高校の通学時、電車の中で何度も遭ったひどい痴漢のこと。
看護の現場だけではなく、もう何十年も前のことなのに、突然ふとした時に思い出し、すごく嫌な気持ちになります。屈辱的で、気分が悪くなることもあります。きっと、ちゃんと声に出せなかったことも、そんな気持ちになる要因なのかもしれません。

看護の現場では“やさしさ”や“プロ意識”の名のもとに、傷つくことを許してしまう文化が、まだ根強く残っているように思います。


※次の段落には一部、過去の経験に基づく具体的な表現が含まれます。


“それも仕事だから”と言われ続けた痛み──看護師が抱える見えない暴力

「看護師だから、仕方ない」
そう言葉にして、どれだけのことを我慢してきたのでしょう。

患者さん・利用者さんの体だけでなく、心や生活、時には家族の関係にも深く関わる。
だからこそ、言葉の暴力やセクハラのような“見えない傷”を受けても、
「プロとして受け流さなければ」と自分を納得させてしまうことがあるかもしれません。「プロ意識を持たなきゃ」と強く思っていると、更にそうなっていくようにも思います。

かつての”お客様は神様”という考えは、医療業界にも浸透していました。患者さん・利用者さんのことを「患者さま・利用者さま」と過剰に丁寧に対応していた時代。そのことも、看護師に“何をしてもいい”“怒られない”と勘違いしてしまう人が生まれやすかったのかもしれません。

看護師は、どうしても処置やケアの際に体を近づけたり、密着することが多い仕事です。
血圧を測っている最中に胸や顔を触られる。体位交換や移乗の際にお尻を触られる。
すごい力で捕まれて陰部を素手で触らせようとする、夜間の巡回時に襲われそうになる。
…そんなことが、数えきれないほどありました。

そして、言葉の暴力もたくさんありました。
直接的で性的な暴力もあれば、看護師を召使いのように扱う人や理不尽なクレーマーも。

もちろんセクハラだけでなく、殴られたり噛みつかれることもあります。

それが、あまりにも日常的すぎて、
気にしないようにしていないと、やっていけないというのも事実でした。

けれど、本来“気にしない”ことが強さではないと思っています。
自分を守ることも、看護の一部だし、自分にも尊厳はある。

後輩の発言を聞いて、
これまで看護師として働く中で感じた“我慢の文化”と、その背景にある報酬や地位の問題について、改めて考える機会にもなりました。

相手との境界線——働く看護師としての尊厳をもつ

看護師という仕事は、人の心や体に深く触れる。
だからこそ、「相手を思いやる・尊重する」「寄り添う」ことが大切です。

けれど時にそれは、境界線を曖昧にしてしまうことも。
どこまでが“やさしさ”で、どこからが“我慢”なのか。

患者さん・利用者さん・ご家族からのセクハラ、暴言、暴力——。
特に病院では、急変に伴う意識障害や疾患によって、本人の意思に反して暴力が発生してしまう場でもあります。

そうすると現場では、
「相手は病気だから仕方ない」
「我慢するしかない」
そんな空気が漂っている場合もあるかもしれません。

本当は、誰も我慢する必要なんてないですし、ちゃんと声にあげて良いと思っています。

守るのは命だけじゃない──看護師の尊厳を守るということ

私は、看護師の報酬や地位の低さは、こうした“我慢の文化”とも深く関係しているのではと考えることがあります。

ケアのひとつひとつに値段をつけてみると、驚くほど安い。
吸引、経管栄養、創部処置、記録……。
どれも高い専門性が求められるのに、単価にすれば数百円、時にはそれ以下。
しかもその裏には、目に見えない時間と労力がある。
関連記事はこちら『看護師の仕事を「お金」や「時間」で見つめなおす』

利用者や家族との会話、看護記録、
夜間の緊急対応、そして自分の感情を整理するための“無音の時間”

それらは「仕事」ではなく「思いやり」として処理され、あまりの忙しさから、いつの間にか無償の労働のように扱われているように感じます。


私は今でも、あのときの後輩の表情や話し方を思い出すと、
あれは、我慢ではなく、現場を守るための“瞬間の判断”でもあったと思います。

でも、もし誰かが心のどこかで傷ついていたなら、私はそのことを、見過ごしたくないとも思います。

「気にしていい」
「守っていい」
「言葉にしていい」

そう伝え合える職場や社会であって欲しいと思います。
看護師という仕事が、“我慢の象徴”ではなく、人を支えながら、自分も大切にできる仕事として認められるように。

こういう様々な暴力に関しては、
「仕事なんだから、我慢しないといけない」「嫌なんて言ってはいけない」
なんて思わなくて良いと思っています。

自分を守るためにできること——それぞれの解決方法

私は、報告や相談以外に意識的に行っていたのは、できる限り記録を残すことです。
カンファレンスで取り上げられることは難しかったり、そこまで大きなことにしたくなかったりする時。そして直接相談する時間も勇気も無い時は、記録は大事な解決方法となってくれます。

しかし、記録に残すことは、嫌な気持ちになったり、思った以上に労力を使います。改めて嫌な出来事を活字にするのは、印象が強くなりすぎるので、文章にすること自体にためらいもあるかもしれません。

でも、そんな書きづらさや、なんて書けば良いか迷ったときは、シンプルに事実と言われたS情報(患者さんの言葉)をそのまま書いていきます。

その結果、記録をすることで、自分の中で線を引くことができます。相手を責めるためではなく、自分を守るためになります。

カルテを読んで、共感してくれる人が出てきたり、対応方法を変えていこうと動いてくれる人が出てきたりもします。


一方で、
記録もせず、声もあげず、
「ああいう人だから」「適当に流しておけばいいよ」と言う人もいます。

それがその人のやり方であり、
本人が納得しているなら、それも一つの選択だと思っています。

けれど、愚痴や不満だけが共有されると、聞く側も心がすり減ってしまうことがあり「それならどうしたいの?」と、つい思ってしまうこともありますよね。

どこまでを「許容できる」と感じるかは、人それぞれです。

だからこそ、「声をあげる」「書いて残す」「距離をとる」「流す」
——どの選択も否定されない場であってほしいと思います。

大切なのは、お互いの線引きを尊重し合えること。
自分の心を守るための方法は、人の数だけあるので、自分がしっくりくる方法を、それぞれが否定せずにいられる環境になっていけたら良いですよね。

さいごに

少しずつ、患者さんからのセクハラや暴力に対して「声をあげる」ことが、できるようになってきた時代のようにも感じますが、私よりずっと若い超戦力看護師でも、まだまだ言えずに我慢している人もいます。

私たちが抱える小さな“我慢”は、
もしかしたら、誰かが声を上げることで少しずつ変わっていくのかもしれません。

それは、セクハラのような言葉だけでなく、暴言、暴力、理不尽な要求、無理解、終わりのない記録……
そんな日々の“我慢”の積み重ねかもしれない。

気にしないふりはせず、もし結果が出なくても、「どうしたらいいだろう」と一緒に考えていける場が増えたら嬉しいです。

看護師という仕事が、“尽くす”だけでなく、“自分を大切にする力”も含めて評価されるようになりますように。

今日も誰かのケアをしながら、
私たち自身も癒されていけますように。

コメント