看護師として、私はこれまで多くの最期に立ち会ってきました。
呼吸器病棟、緩和ケア、そして訪問看護。
おそらく300人以上の方が、目の前で人生の最期を迎えています。
けれど、その中でも私にとって特別な看取りがあります。
それは、「家族」の最期でした。
大好きだった、祖母と愛犬。
祖母が亡くなる前日、
私はなんとなく気になることがあって、
介護をしている母と連絡をとり、状況を聞きました。
嫌な予感は少し確信に近く、仕事をお休みさせていただき、
祖母の家に泊まりに帰りました。
もう長年も長年、寝たきりだったので、
医療的なケアも必要な状態でした。
経管栄養に吸引、浣腸に膀胱カテーテル留置など。
慢性の気管支炎や廃用の影響で、
常にのど元はゴロゴロ。
その日も、同じく痰がらみがありましたが、
心機能の低下も加わったような音でした。
そして、尿量も減少。
介護していた母は医療職ではないので、
長年聞き慣れている「いつものゴロゴロ」だと思っていたようでした。
ただ、医療職として長く働く中で
その状態はもう、最期が近いサインでした。
色々な不安がある中、
母はずっと祖母と向き合ってきたんだなと思う瞬間でもありました。
簡単なことは何一つなく、私には到底真似できない介護生活です。
そして、今後のことを決めなくてはならない時間も迫りました。
自宅でこのまま看取るか、
希望によっては、病院に搬送してもらうか。
看護師をしていたのに、恥ずかしながらその時を迎えるまでに、
そこまでちゃんと最期の方針を家族で話し合っていませんでした。
このまま自宅で過ごすものだと、自分だけの思い込みもあったと思います。
祖母の状態からすると、
入院してもできることは変わらないし、
この状況でそもそも受け入れ先があるのか、
点滴をしても根本的治療にはならないであろう状態です。
そんな現状を家族に改めて共有しました。
その時、このまま看取りの可能性があると分かった母は、
涙ながらに自宅での自然な看取りを決めました。
辛い決断だけれど、母の「娘としての姿と強さ」を垣間見たように思います。
最期の時間は、
静かに近づいてきました。
少しずつ変化する呼吸。
これまでのたくさんの思い出が浮かびました。
受け入れられない現実が差し迫ってくると、
胸が締め付けられる反面、
看護師としてしっかりしなきゃと思う複雑な気持ちになりました。
そして、
母はずっと傍らに寄り添って、最期の呼吸を見守りました。
その後すぐに駆け付けた家族全員も集まり、
静かな最期を迎えることができました。
その時の私は、何度も不思議な感覚を行き来していました。
亡くなる瞬間までは、看護師。
亡くなった瞬間は、家族。
そしてエンジェルケアをしているときは、また看護師。
家族と看護師の感覚が、何度も交差していたように思います。
悲しみはとても大きいものでした。
大好きな祖母がいなくなってしまったことは、今でも寂しく感じます。
そして実家で飼っていた愛犬のことも。
この時もなぜか、
もしかしたらもう会えないのではないかと感じて、
会いに帰った日のことです。
必死に歩く姿が、何とも苦しくて。
もう目も見えないけれど、なんとか私の膝に上がろうとするのです。
切なくて言葉になりませんでした。
「今離れたら、もう会えない気がする」
私がそう泣き出した途端に、母もそれを見て、
本当に最期が来ているのだと一緒にたくさん泣きました。
認めたくなかったし、
受け止められなかったことでしたが、
「ああもうこれは現実なんだ」と、より実感したのを覚えています。
そして、その日の夜中
家族が集まってしばらくすると、
みんなの前で最期の大きな呼吸をして、亡くなりました。
祖母の死も、愛犬の死も。
息が苦しくなるくらい、たくさん泣きました。
けれど、振り返れば、
最期の時間に立ち会えたことは
私にとって大きな救いでもありました。
祖母が亡くなったあと、私は訪問看護の世界で約10年働きました。
そこでもたくさんの看取りを経験しましたが、
ただ通り過ぎていくような看取りもありました。
穏やかな最期もあれば、苦しい最期もあります。
その時間の中で、私は何度も感じたことがあります。
もしかすると私は、
祖母のあの時間のために看護師になったのかもしれない、と。
そして、祖母が長年療養している姿を
目の前で見せてくれたことで、
たくさんの生きるという学びも得られたように思います。
看取りは、決して特別な出来事ではなく、
誰にでも訪れる人生の一場面なのだと思います。
けれど、その時間を
誰と、どのように過ごすかはとても大切なことだと思います。
家族の最期の時間は、
私にとって今も大切な記憶として残っています。



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